メニュー   次画面   前画面 アジア・太平洋戦争展(撃墜飛行機-3/4)


「感想文展」より
 HP戦争の写真展を拝見して軍人だった父のことを思い起こしました。
父:根木純一は明治36年生まれ、昭和15年7月7日仏領印度支那で
戦死しました(60年前です)
 大阪:北野中学から海軍兵学校(50期)を卒業し、海軍大学では
砲術を専攻し砲術学校の教官もしましたが、最後は大本営海軍参謀
(中佐)でした。父は戦争(当時の蒋介石相手の戦争)を早く終結
しなければいけないという反戦論者で、昭和天皇の御前会議で支那
との早期講和を主張してたそうです。
 仏領印度支那へ出張したのは、当時アメリカが蒋介石を援助する
物資をハノイから重慶へ陸路運び込んでいたのをフランスの協力を得て
遮断し、蒋介石側が困ったところで有利な条件で講和をしようとの
目的で、外務省・陸軍省・海軍省の合同チームで仏領印度支那に出かけて
カトール仏印総督と「援蒋ルート遮断」の交渉をし、その監視にあたる
ためでした。
 石川達三(作家)は昭和16年から海軍の徴用を受けて報道部員
としてサイゴンに行き「援蒋ルート遮断」の交渉から父の戦死を含めて
取材したそうですが、記事は特高の検閲を恐れて昭和53まで発表せずに
いたそうです。
 1979年1月初版発行の「包囲された日本---仏印進駐誌」(集英社)
の前書きで石川達三は述べている・・・いまさらこのような記録を
発表するのにどれだけの意味があるのか。その事も私は考えてみた。
今日の浮薄な世相から見れば、或いは無くもながの出版物であるかも
終わった事と、戦わなければならなかった必然性とは、問題が別である。
 私はやはり、あの当時の日本の歴史的な苦悩と世界の情勢とを考えて
見る上から、刊行物としてこれを残して置きたいと思った。当時の日本を
 「援蒋ルート遮断」チームは、石川達三の「包囲された日本」に
よると・・・(原文のまま)
 陸軍側委員長西原少将、副委員長佐藤賢了大佐、中井大佐、酒井少佐、
海軍側委員柳本大佐、根木中佐、福岡少佐、外務省側一等書記官柳沢健氏、
その他。
(中略)
 ハノイの看視団本部は日本側では西原機関といい、フランス側では
ミッション・ジャポネと言っていた。
西原機関は陸軍二十三名海軍七名、合計三十名の軍専門委員から成り、
随員を加えると百名ちかい人数であった。
(中略)
 看視委員の上陸後七日ばかりたって、西原機関機関の交渉により広州湾
雷州半島からはいってゆく援蒋物資についても監視を行うことになり、
海軍側委員根木中佐がその任に当たった。中佐は仏印航空会社エール・
フランスの飛行機にのって広州湾に飛んで行った。その途中で飛行機は
小島の上を飛んだ。ところがこの島は日本海軍が占領してひそかに基地を
造っているところであった。仏印の飛行機はそれを知らずに飛んだもので
あろうが、下から見ているとフランスの飛行機が基地の上を飛んで行くのだ。
忽ち痛烈な砲撃によって撃ち落してしまった。乗員乗客全部墜死し、その中に
根木中佐もまじっていた。武力行動には秘密が多く、秘密行動には猜疑が伴う。
根木中佐は日本軍の猜疑心の犠牲であった。中佐は死の数日前にハイフォンの
市長マッシュ氏の招宴に出席したことがあった。
 市長は歓迎の辞をのべ、中佐はそれに答えてから言った。
「自分たちは援蒋物資看視委員という名目でやって来た。しかしこんな小人数
で看視などはできるとは思わない。そういうことよりも自分は仏印と日本との
親善をはかりたい。後日自分たち看視委員は、親善使節であったと言って貰い
たいと思う」
 この挨拶はマッシュ市長をこの上もなく明るい気持ちにさせ、少なくとも
ハイフォン市においては大戦がはじまってからも後までも、海軍とフランス側
との交渉は円満な関係を続けて行けたのであった。
(以下略)
 ところが最近になって反戦論者である父は戦争推進派に暗殺されたとする
情報が聞こえてきて困惑してますが、反戦論者の軍人もいたということを
お知らせいたします。